スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | | スポンサー広告

神曲からの考察

DMCのキャラ名は基本的にダンテの神曲からとられてるわけですが、
原作の神曲のそれぞれの役どころを考えてみると、何というか…
どうにも我らのおにいやんが可哀想過ぎると思うわけで。
以下に、自分的解釈織り交ぜたぐだぐだを折り込んでおきます。


 * * *

神曲では、暗い森の中に迷い込んだダンテが、師とも呼ぶべき存在である
ヴェルギリウスの助けを借りて地獄の深奥から煉獄へと巡ります。
煉獄を経て天国に辿り着く段階で、ヴェルギリウスは
洗礼を受けていないために天の国の門をくぐれないことが分かり、
ダンテはヴェルギリウスを煉獄に残して別れます。
そこで天国の案内人はベアトリーチェにバトンタッチ。

 * * *

これをDMC3に当てはめてみると、兄鬼が弟よりデキた兄になるのは
ある意味当然かも知れません。多分、ダンテも無意識に
その背中を追っかけてる部分があったんじゃないかなーとか思います。
神曲では煉獄編で七大罪に対応する地獄も見て回るので、漫画版で語られる、
テメンニグルの七大罪の封印を解いて回るあたりがそれに該当するのではと。

テメンニグル登頂は、ダンテとヴェルギリウスが共に煉獄山を登るくだりを
連想させます。弟も兄鬼に導かれてテメンニグルを登るわけですし。
でも、兄鬼は弟と一緒に「天の国」には入れないことが、
その名前からして運命づけられていたのではないかと思ったりします。
ヴェルギリウスが未洗礼者であるが故に、煉獄に留まったように。
そうすると、兄鬼の「俺はここでいい」という台詞が重なってきます。
兄鬼は、自分は天の国に登る資格はない=人の世界で幸いを得る資格はない、
と考えていたんじゃないだろうか。逆に、弟にはその資格がある、とも。
ここまで妄想してきましたが、こうだとしたらえらい切ないですなあ…。

兄鬼の閻魔刀が「人と魔を分かつ剣」であることも、
そう考えるとそれなりの理由づけができそうな気がします。
その「人と魔を分かつ剣」で伸ばされたダンテの手を斬りつけて
振り払ったことが寓意を帯びて見えてくるのですよー。
あの瞬間、文字通り「人」と「魔」は分かたれたのだと思います。
弟と共に歩めぬ運命が確定した瞬間だったんじゃないでしょうか。

 * * *

天の国の導き手はベアトリーチェ=トリッシュなわけですが、
トリッシュにママーダの影を重ねて考えると、確かに彼女は
「天の国」へダンテを導く聖女だったんだなあ。
ただ、そこにヴェルギリウスは行けないんですけどね。

時間的に3→1までが地獄→煉獄編で、4は天国編のような気がします。
4の天国はまがい物ですが、そこがDMCらしいアレンジだと思う。
天国まで登頂したダンテは神を見る領域に達するわけですが、
4おっさまも偽神とガチンコ対決しますしねー。
こうして見てみると、やってることはいちいちメチャクチャだけど、
実は結構きちんと原作に対応してるんじゃないか?と思えてきます。

2009.12.06 | | Comments(0) | 悪魔狩人

コメント

コメントの投稿


秘密にする

« | HOME |  »

プロフィール

 晏嬰 亮
 (あんえい・りょう)

カレンダー

マジカロスやろうぜ

ブログ内検索


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。